2022年3月19日 @ 大阪 イサオビル
「モノ」語りは増殖する
気仙沼リアス・アーク美術館「被災物」との出会いから
第二部 語らいの時間
映像とテキスト
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語らい その1
❶気仙沼リアス・アーク美術館 館長による「被災物」をめぐる話。
- 震災常設展示の紹介。
- フィクションとも言いうる、「被災物」展示に添えられた言葉の 意図するところ。
- 「被災物」。その発想、言葉はどのようにして生まれ出たのか。
- 「被災物」はどのような存在として観る者に働きかけるか。
❷山内明美(南三陸出身。歴史社会学。宮城教育大学教員)による
「被災物」に関わる話。
- 南三陸に立つ「奉一切有為法躍供養也」の碑とその意味する
ところについて。
- 供養、そして記憶の継承の「場」としての「芸能」
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語らい その2
- 兵庫・西宮神社の「えびすかき」を保存継承している武地秀実さんの「被災物」との出会いから、えべっすさんをこの場で舞わせる
までのお話。
- それを受けたリアス・アーク美術館館長の、型破りな「被災物」展示誕生の経緯と、現在の美術館・博物館展示一般についての見解。
- 気仙沼の「立ち恵比寿」をめぐる話。
- 震災伝承としての新しい祭りの構想。
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語らい その3
- 気仙沼リアス・アーク美術館 館長と会場のやりとり
- アニミズム、アナキズム、「被災物」「蛭子」「恵比寿」「異人」「来訪神」へと収斂していく話。
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「語らい」を深めるための 参考映像
ゑびすの到来
被災物とは
山内宏泰
(リアス・アーク美術館 館長)
Ⅰ.ナラティブな災害資料展示
● 当館「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示最大の特徴は、キャプション等に 綴られたテキストの数と膨大な文字量です。入室と同時に、観覧者は同展が「眺める展示」ではなく「見つめて読む展示」であることを悟ります。
● テキスト類は単なる資料解説ではなく、資料の外側へと思考を導くような語りとなって います。
いわゆるナラティブを多用している点において、同展示の特異性は他に前例のない ものであり、
この展示手法によって、同展はそれまで社会的に認識されていなかった被災者 一人一人の身体感覚や災害被災物の文化的価値、意味というものを一般に知らしめたと言えます。
● 収集被災物 155 点の展示では、被災物に収集場所、収集日時を記したキャプション(赤色のカード)を添え、内 61 点についてはハガキ状の用紙に物語を綴った補助資料を添えています。方言によるそれらのナラティブは、被災者の証言記録ではありません。
● 例えば足踏みミシンに添えたナラティブは、収集した足踏みミシンとは無関係です。これは私自身の幼少期の経験、記憶を、ミシンを使っていた母の視点に置き換えて語っているものであり、被災したそのミシンを発見した際、現場において私の脳裏に浮かんだ記憶に他なりません。よってこれをフィクションと呼ぶべきなのか、あるいは一被災者の被災の記憶 と呼ぶべきなのか、私自身は判断しかねています。しかし、自身の記憶を母の立場に置き換えて表現した段階で、それは明らかな演出行為であることから、対外的にはフィクションと して紹介しています。
なお、同館の展示室では、それらのナラティブが被災者の証言記録ではないこと、被災物にナラティブを添えることの意味、趣旨をパネル解説しています。
Ⅱ.ガレキではないもの
●東日本大震災被災現場記録調査活動を行った私が、調査員として最初に現場へ足を踏み入れたのは2011 年 3 月 16 日 15 時、気仙沼市鹿折地区でした。その時、私は真っ黒いヘドロの川と化した道に立ち、言葉もなくただシャッターを切っていました。
恐怖や悲しみといった感情はなく、見知った商店の看板など、かろうじて残された表示物を頼りに、その場所が別世界ではないという事実だけを、必死になって確認していきました。
● 膨大な被災物体によって埋め尽くされた被災現場に、人が拠って立てる地面は存在していませんでした。開けて見える真っ黒な場所はスネまで埋もれるようなヘドロ地帯であり、目に見える住宅基礎や被災家屋片などが唯一の足場でした。心の中で詫びながら、私は、つい 数日前まで誰かの家だったもの、誰かの大切な記憶を踏みつけて歩きました。
紙屑のようにひしゃげたトタン屋根、飴のようにねじ曲がった鉄骨類、家屋の柱や壁の木材など、比較的大きな家屋片の塊が干潟のようなヘドロの大地に点在していました。そこには、いくつかの小型船、養殖筏の一部、ドラム缶、無数の自動車、家具、家電等の家財、衣類、書籍、ぬいぐるみなどが漂着し複雑に絡み合っていました。そういったモノを目にした 最初の思い、それは「自分が失ったものもどこかでこのような姿になっているのだろう」という、モノに対する哀れみの情と愛おしさでした。
● 被災後、初めて「ガレキ」という言葉を耳にしたとき私は軽い違和感を覚えました。その 理由は、まず日本語の意味として合っているのかという疑問。加えて種別を問わずに全て「ガレキ」と呼ぶことに対する不快感でした。私はすぐに辞書を引きました。
瓦礫という言葉の意味が文字通り瓦片や小石などを意味することは知っていました。しかし、さらに比喩的表現として「価値のないもの、つまらないもの」との意味があることを知り、私はこの言葉の使用を禁止しました。
あれらのモノはもともと固有の意味を持つものでした。例えば洗濯機ならば洗濯をするための道具、機械といったように。ならばどのような状態であっても、それは洗濯機と呼べば よいはず。しかしながら、固有名詞によって表現することが困難なほど多種多様かつ膨大な 物体が、もとの姿とは違う形状に変化し、まき散らされた状況を語るならば、やはり何がしかの代名詞が必要とされます。そこで瓦礫という言葉が用いられたのでしょう。しかし、本来瓦礫という言葉は「瓦礫と化した○○」との比喩表現においてのみ使用が許されるのであって、何かをそのまま瓦礫と読み替えることは一般的に判断して失礼にあたります。これは 国語表現上のルールのはずですが、2011 年当時、そのルールを知る者はほとんどいませんでした。
瓦礫という言葉はメディア等によってその後も使用され続けました。結果、被災したモノ を瓦礫と表現することが一般化し、被災地支援者でさえ、なんの疑問も持たず瓦礫という言葉を使い続けました。一旦不適切さを意識してしまった私にとって瓦礫という言葉の使用はもはや許しがたく、被災者を傷つけないために何か正しい表現を見つけなければならないと考えるに至りました。
モノの収集を始めた当初は「被災資料」との呼び方もしてみました。しかしその表現だと 収集され、資料化された被災物体だけを表す言葉になってしまいます。加えて文化財レスキュー活動などにおいて「被災した文化財や博物資料等」を意味する目的で被災資料という言葉が使用されるようになったため、私はこの言葉の使用を止めることにしました。そして新たに用いた言葉が「被災物」です。
●被災した人を被災者と呼ぶように、被災したモノは「被 災物」と呼びます。
Ⅲ.被災物の定義
● さて、「被災物」という言葉は私が生み出した造語ですので、改めてここでその定義をお示しておきます。
①被災物の物的定義
物的定義において、被災物とはもともと固有の意味、機能、用途を持つ人工物であり、人々の暮らしにおいて使用されていた、あるいはその役目を終えて保管されていたモノのうち、 災害等によって汚染、破壊されるなどした結果その機能、用途を失った、あるいは十分に満 たすことができなくなったモノを意味する。
②被災物の心的定義
心的定義において、被災物とは被災した者の心情を物語るための媒体である。災害等による被災により汚染、破壊されるなどした家屋、家財、その他ありとあらゆる日用品のうちで、 同様の被災経験を持つ者に被災前の生活記憶を想起させるモノを意味する。
● なお、「災い」という言葉は人に不幸をもたらす物事や、その結果による不幸な出来事を 意味する。そして「被災」とは人が災難を受けること、災害、災いにあうことを意味する。 つまり、被災とは非常に心的な現象であることから、心を持たない物体が被災していること を表す被災物という言葉は、一つの比喩的表現である。
● 以上、被災物という言葉は物的定義と心的定義の二種によって定義されるものとしてい ます。この定義において被災物は社会的価値や貨幣価値、希少性などとは無関係であり、唯一、被災者、あるいは同様の被災経験を持つ者が想起する被災前の記憶によってのみその価値、意味が主観的に固定されます。
Ⅳ.被災物という新たな価値
● 被災物の価値は、あくまでも主観的な見立ての価値です。よってその価値は、ある者の語りによって提案され、その語りを共有しようとする者たちの共感の度合いによって固定さ れます。つまり、より多くの者がその語りを共有し、その心的内容に共感出来た場合、すな わち感動が得られた場合、その語りを宿す被災物体は記憶の器、記憶媒体としての価値=「被災物という新たな価値」を収得します。
●ゆえに、例えそれが文化財や博物資料であったとしても、固有の価値、あるいは被災物としての価値を即座に確認できなかった場合、残念ながらその被災物体は災害廃棄物と判断され、現場で処分されてしまいます。
● 一方で一旦被災し、姿かたち、所在が変化した場合でも、記憶媒体としての価値が一般に共有されている「写真」については無条件に収集、保護対象とされました。
「現場に散乱するほぼ全てのモノには、写真と同じようにその日までに積み重ねられた人々の生活の記憶、日常の記憶が託されている」、仮にあの当時、皆がそういう意識を共有できていたならば、記憶の吸い上げや、語りの機会を得て、より多くの被災物が保存されていたかもしれません。しかし現実には、ほとんどの被災物が、ただただ邪魔な廃棄物として処分されてしまいました。
● 災害復旧、復興事業等によって人々の生活の痕跡や記憶が失われてしまった場所に、レスキューされ、ピカピカに修復された文化財を持ち込み、それを頼りに地域文化を再生しよ うとすることはとても難しく、かつ非常に空しいことです。被災物の価値を見落とすことが、 いかに重大な文化的過失であるか、10年前、そのことに気付いている者はごく少数でした。ゆえに、昨今新設される東日本大震災伝承施設などで、多種多様な被災物を複数所持、展示している施設の事例もほとんど見られません。
Ⅴ.まとめに
● 被災物が象徴する出来事とは「失われた物事の価値」であって、「救われた物事の価値」を示すことではありません。
● 被災物の収集、保存活動とは、被災した状態をそのままに、出来事の象徴として保存するアーカイブ活動であり、被災した物体を保護し、被災前の状態に回復させる文化財レスキュー活動とは価値観が全く違います。
● 「被災の状態=質感」を保持することは被災物収集、保存における大前提、絶対条件です。被災物にとって最も重要な質感は被災による絶望的なダメージであり、このダメージは被災物の中で生き続けていなければならないと当館では考えています。ゆえに、被災物を取り扱う際には、付着した砂や泥、汚れなども全て保存対象とし、かつ保存処理なども一切行いません。
● 最後に、被災物という言葉は、まだ辞書には記載されていない言葉です。そのため、なかなか一般には理解されていない部分もありますが、「ものを大切にする」というような概念とは全く異質の、むしろモノではなく、モノの背景、モノと人の関係性、あるいはモノを介 してつながる人と人の物語を尊ぶ概念であり、つまり「被災物」とは「そういう何かを繋ぐ もの」のことです。
以上。
語らい その1
姜:
第二部はですね、まずは、この「被災物」の催し自体の、本当におおもとの被災物の展示をつくられたリアスアーク美術館の山内宏泰館長と、それからいちばん最初に私がご紹介したこの本『忘却の野に春を想う』の往復書簡の相手である山内明美さん、南三陸出身でいま仙台で、宮城教育大学という大学で教鞭をとられているんですけれど、そのお二方から順番に15分ずつ、私たちをこのようにさせてしまった、そのおおもとのことをお話していただこうと思っています。仙台、気仙沼のお二方、よろしくお願いします。
それから、いま前に並んでいる、私を含めてこの5人(渡部八太夫、太田てじょん、岡本マサヒロ、深田純子)は、通称ピヨピヨ団といいます。山内明美さんは、ピヨピヨ団に誘ったら、ソロでいきたいということで断られております。(笑)このピヨピヨ団が、そもそも最初にリアス・アーク美術館の被災物の展示に応答したいということでいろんな試行錯誤をしてきて、「モノ」語りを増殖させるに至った今日があるわけですね。
そして、今日は、いよいよピヨピヨ団から他の皆さんに増殖の蠢きをつなぐことができたという、たぶん記念すべき日になったのではないかと思っているんですが、ただ一抹の不安というか、かなり不安なのは山内館長が「おれ、こんなつもりじゃ、なかったぞ」って、もしかしたら思ってるかもしれないという……。
たぶん、私たちだけでなく、今日ここにお集まりなったみなさんも、被災物を前にしているうちに、記憶やら妄想やらが心から溢れ出ちゃって、こういうふうに「モノ」語りが増殖してしてしまったということになったんだろうと思っているんですけど、まずは原点に帰って「被災物そもそも話」というのをお伺いしたいと思います。
山内宏泰さん、よろしくお願いします。
山内館長:
えっと、音大丈夫ですかね? そしたらさっそくですが、今からちょっと画面を共有しまして、少しスライドなど使いながら、一応持ち時間15分ということになってますので、何となくそのくらいで話をしたいと思います。
それでは、いきなりですが本題にはいって話をしていきたいと思います。よろしくお願いします。
当館のですね、「東日本大震災の記録と津波の災害史常設展示」の最大の特徴は、キャプションなどにつづられたテキストの数と膨大な文字量じゃないかなと思います。入室と同時に観覧者はこの展示が「眺める展示」ではなくて「見つめて読む展示」であることを一瞬で悟ることになります。
テキストの類は単なる資料解説というものではなくて、資料の外側に思考を導くような語りという形となっています。いわゆるナラティブを多用しているという点において、同展示の特異性というもの、これは他に前例のないものであって、この展示手法によって、この展示はそれまで社会的にほとんど認識されていなかった被災者一人ひとりの身体感覚とか、災害被災物の文化的価値、意味といったものを一般に知らしめたと言えるのではないかなと思っています。
収集被災物155点展示をしてますが、この展示では被災物に収集場所、収集日時を記したキャプション、赤い色のカードですね、それからそのうちの61点については、葉書状の用紙に物語をつづった、補助資料と呼んでいますけれど、そういったものを添えています。方言によるそれらのナラティブは、被災者の証言ではないということです。
たとえば、この足踏みミシン。これに添えたナラティブについては、収集した足踏みミシンとは実はまったく無関係ということですね。これは私自身の幼少期の経験、記憶を、ミシンを使っていた母の視点に置き換えて語っているというものであって、被災したミシンを発見した際に現場において私の脳裏に浮かんだ記憶に他ならないということです。よってこれをフィクションと呼ぶべきなのか、一被災者の記憶と呼ぶべきなのか、私自身は判断しかねるところです。しかしですね、ミシンの記憶を母の立場に置き換えて表現したという段階で、それは一般的にいうところの演出行為ですから、対外的にはフィクションとして紹介しています。なおですね、この展示室の中でそれらのナラティブが被災者の証言記録ではないこと、被災物にナラティブを添えることの意味、趣旨をパネル解説しています。
東日本大震災の被災現場記録調査活動というものをおこなった私が調査員として最初に現場に足を踏み入れたのは、2011年の3月16日の15時頃ですね。気仙沼市鹿折地区というところでした。その時、私は真っ黒いヘドロの川と化したまちの中の道に立って、もう言葉もなくシャッターを切っていました。恐怖や悲しみといった感情というものは不思議なくらいまったくなくてですね、ただただ見知った商店街の看板など、かろうじて残された表示物などを頼りに、その場所が別世界ではない事実だけ、それだけを必死になって確認していたと。まあ、そんな感じでした。膨大な被災物体によって埋め尽くされた被災現場。まあこんな状態ですね。そこに人が寄って立てるような地面というものは存在していませんでしたね。ひらけて見える真っ黒な場所、それはスネまで埋もれるようなヘドロ地帯であって、目に見える住宅基礎とか、被災家屋片などが唯一の足場でした。心の中で詫びながら、私は、つい 数日前まで誰かの家だったもの、誰かの大切な記憶を踏みつけて歩くしかなかったということです。紙屑のようにひしゃげたトタン屋根、飴のようにねじ曲がった鉄骨類、家屋の柱や壁の木材など、比較的大きな家屋片の塊が干潟のようなヘドロの大地に点在しているという状態でした。そこにはいくつかの小型船、養殖筏の一部、ドラム缶、無数の自動車、家具、家電等の家財、衣類、書籍、ぬいぐるみなどが漂着し、複雑にからみあっていました。そういったものを目にした最初の想い、それは自分が失ったものもどこかでこのような姿になっているんだろうなと、そういったモノに対する憐みの情と愛おしさというものでした。
被災後に、はじめて「瓦礫」という言葉を耳にしたとき、私は軽い違和感を覚えました。その理由は、まず日本語の意味として合っているのかなという疑問。加えて種別を問わずすべて「瓦礫」と呼ぶことに対する不快感でしたね。私はすぐに辞書を引きました。「瓦礫」という言葉の意味は文字通り、瓦や小石などを意味することは知っていましたが、しかしですね、さらに比喩的表現として、「価値のないもの、つまらないもの」と、そういった意味があることを知って、私はこの言葉の使用を禁止しました。あれらの物はもともと固有の意味をもつモノだったわけです。たとえば洗濯機というものならば、洗濯をするための道具、機械といったように。ならば、どのような状態であってもそれは洗濯機と呼べばよいはず。しかしながら固有名詞によって表現することが困難なほど、多種多様、かつ膨大な物体がもとの姿とは違う形状に変化し撒き散らされた状況を語ろうとするならば、やはりなにがしかの代名詞が必要とされます。
そこで「瓦礫」という言葉が用いられることになったんでしょうけれども、本来ですね「瓦礫」という言葉は、「瓦礫と化した〇〇」と、そういった比喩表現においてのみ使用が許されるのであって、何かをそのまま「瓦礫」と呼び変えるということは、一般的に判断して失礼にあたりますね。これは国語表現上のルールのはずなんですが、2011年当時、そのルールを知っているという人はほとんどいなかったということです。「瓦礫」という言葉はメディア等によってそのまま使用され続けることになりまして、結果、被災したものを「瓦礫」と表現することが、むしろ一般化してしまった。そして被災地支援者という人たちさえも何の疑問ももたずに「瓦礫」という言葉を使い続けていました。
いったん私のように不適切だと意識してしまった者にとっては、「瓦礫」という言葉の使用はもはや許しがたかった。被災者を傷つけないために、何か正しい表現を見つけなければならないなと考えるに至ったということです。物の収集を始めた当初は、「被災資料」と、そういった呼び方もしてみたんですけれども、しかしその表現だと、収集されて資料化された被災物体だけをあらわす言葉になってしまいます。加えて文化財レスキュー活動などにおいて、被災した文化財や博物資料等を意味する目的として「被災資料」という言葉がもちいられることとなったため、私はこの言葉の使用をとりあえずやめることとしました。そして新たに用いた言葉が「被災物」という言葉になります。被災した人を「被災者」と呼ぶように、被災した物は単純に「被災物」と呼ぶ。そういうことです。
それにですね、「被災物」という言葉なんですが、これは私が生み出した造語ですので、定義をお示ししておきたいと思います。
まず「被災物」の物的な定義ということなんですが、物的定義において「被災物」はもともと固有の意味、機能、用途をもつ人工物であり、人びとの暮らしにおいて使用されていた、あるいはその役目を終えて保管されていたモノのうち、災害等によって、汚染、破壊などされるなどした結果、その機能、用途を失った、あるいは十分に満たすことができなくなったモノを意味すると。
次に「被災物」の心的定義ということになりますが、心的定義において「被災物」とは被災した者の心情を物語るための媒体である。災害等による被災により、汚染、破壊されるなどした家屋、家財、その他ありとあらゆる日用品のうちで、同様の被災経験をもつ者に被災前の生活記憶を想起させるモノを意味する。
なお「災い」という言葉は、人に不幸をもたらす物事や、その結果による不幸な出来事を意味する。そして「被災」とは人が災難を受けること、災害、災いにあうことを意味する。つまり、「被災」とは非常に心的な現象であることから、心をもたない物体が被災していることを表す「被災物」という言葉は、ひとつの比喩的表現である。
以上、「被災物」という言葉は、物的定義と心的定義と二種類の定義によって定義されるとしています。 この定義において被災物は社会価値や貨幣価値、希少性とは無関係であり、唯一、被災者、あるいは同様の被災経験をもつ者が想起する被災前の記憶によってのみ、その価値、意味が主観的に固定される。そういうことにしています。
被災物の価値なんですが、被災物の価値は主観的な見立ての価値です。よってその価値は、ある者の語りによって提案され、その語りを共有する者たちの共有の度合によって固定されます。つまり、より多くの者がその語りを共有し、その心的内容に共感できた場合、すなわち感動が得られた場合、その語りを宿す被災物体は、記憶の器、記憶媒体としての価値=「被災物という新たな価値」を収得します。
ゆえに、たとえ、それが文化財や博物資料であったとしても、固有の価値、あるいは被災物としての価値を即座に確認できなかった場合、残念ながらその被災物体は災害廃棄物と判断され、現場で処分されてしまいます。
一方で、姿かたち所在が変化した場合でも、記憶媒体としての価値が一般に共有されている「写真」というものについては、無条件に収集、保護対象とされました。現場に散乱するほぼすべてのモノには、写真と同じようにその日までに積み重ねられた人々の生活の記憶、日常の記憶が託されていると、仮にあの当時、皆がそういう意識を共有できていたならば、記憶の吸い上げや、語りの機会を得て、より多くの被災物が保存されていたかもしれません。
しかし、現実には、ほとんどの被災物が、ただただ邪魔な廃棄物として処分をされてしまいました。災害復旧、復旧事業などによって人々の生活の痕跡や記憶が失われてしまった場所に、レスキューされ、ピカピカに修復された文化財を持ち込み、それを頼りに地域文化を再生しようとすることは、とても難しく、非常に空しいことです。被災物の価値を見落とすことが、いかに重大な文化的損失であるか、10年前、そのことに気づいている者はごく少数だったということですね。ゆえに、昨今新設される東日本大震災の伝承施設などで、多種多様の被災物などを複数所有して、それを展示しているという施設の事例というものはほとんど見ることができないということです。
時間がないのでまとめていきますけど、被災物が象徴する出来事とは「失われた物事の価値」であって、「救われた物事の価値」を示すことではないということです。これは重要なポイントとなります。
被災物の収集、保存活動とは、被災した状態をそのままに、出来事の象徴として保存するアーカイブ活動であり、被災した物体を保護し、被災前の状態に回復させる文化財レスキュー活動とは価値観がまったく違います。
「被災の状態=質感」を保持することは、被災物収集、保存活動における大前提、絶対条件です。被災物にとってもっとも重要な質感とは、被災による絶望的なダメージであって、このダメージは被災物の中で生き続けていなければならないと、当館では考えています。ゆえに、被災物を取り扱う際には、付着した砂や泥、汚れなども全て保存対象とし、保存処理なども一切行いません。
最後にですね、この「被災物」という言葉は、まだ辞書に記載されていない、公式には日本語として認められていない言葉になります。そのためなかなか一般には理解されにくい点もありますけど、「モノを大切にする」という概念とはまったく異質のモノであって、むしろモノではなく、モノの背景、モノと人の関係性、あるいはモノを介してつながる人と人の物語を尊ぶ概念であるということです。つまり「被災物」とは「そういう何かを繋ぐもの」であると皆さまに解釈していただければよいかなと思っています。
ということですね、先ほどこんな予定ではなかったと私が思っているんじゃないかと不安だという話が最初にありましたが、まったくそんなことはありません。私、なかなか動画を見る時間がなくてですね、いただいた紙資料のほうで皆さんが紡いだ言葉をたくさん読ませていただきましたが、正直、非常に驚きました。私が種を蒔いたのか、土壌をつくったのか、よくわかりません。ただそこにこう、実を言うと、もう既に根を張り、芽が出ているんだなと非常に驚きました。私の話はこれで終わりです。
会場:拍手
姜:
はい。ありがとうございます。ちょっと安心しました。うん。確実にこれは山内館長の仕業なので、私たち共犯者ですから。このまま山内館長の話を受けたかたちで、同じく三陸の山内明美さんからお話をしていただきたいと思っているんですけれども、この「被災物」に応答するという取り組みをピヨピヨ団が始めたときに、南三陸で集会をするという話があったんですね。山内明美さんの出身の集落に行って、それでいろいろやらかそうという話をしてたんですけど、ただこの被災物についてはきっと、地元の方々はまだ心が痛くて、見ることはできないだろうと、そういうことを山内明美さんはそのとき言っていたんですね。われわれは被災物を見て、刺激されて、物語を紡ぐことになったけれども、それをすることも聞くこともなかなか地元の人は難しい。そういう背景を認識しつつ、山内明美さんにこれからバトンタッチして、お話をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。
山内明美:
みなさん、こんにちは。「つながった世界~♪sいえーい」。夫の山内館長がですね。(姜:うそつき!) 山内館長がですね、だいじな話をしてくださいましたけれども、私も最初にリアスアークの常設展示に行ったときにびっくりしましたね。かなり、なんというか、海外から評価されていてですね、どちらかというと、三陸の足元よりは、外側からみなさんご覧になっていただいてるっていうような感想をもっています。
リアスアーク美術館の展示そのものについてですとか、被災物とは何かみたいなことは私はあんまり言えないんですけど。
ひとつ、今日、皆さん全体的に、なんか素人じゃないなみたいな、すごい素晴らしかったですね。みなさんの語りそのものがですね。もうほとんど一切供養というか、モノの供養を超えている? 供養しながら。
そもそも最初に姜さんと話はしたんですよね。記憶のケアみたいなものをどうするのかとか。ずっと話をさかのぼっていけば、広島、長崎だったり、さらに在日の姜さんのルーツにさかのぼる話だったり、この三年間、やってきた気がするんですけども。
南三陸では、私、よくする話なんですけど、鹿踊りといって、鹿の頭を被って踊る踊りがあります。その鹿踊りの供養塔があるんですね。南三陸の戸倉の水戸辺という集落ですけれど。 そこも津波でほぼ流されてしまって、残っている家は2軒くらいで、その他は40軒くらい流されてしまっているんですけれど。そこの高台に一切供養塔といってですね、見えますかね?ほんとうは四角いものではなかったんですけど、これ江戸時代1724年に建立されているので、かなり劣化してしまって、コンクリートで固めてしまったという、80年代に再発見されたときに固めてしまってこんなになってしまってますけど、ここにこのように「奉一切有為法躍供也」と書いてあるんですね。
これは1724年に建立されたんですけど、1722年、この供養塔が建立される2年前に、この戸倉のあたり、南三陸の三陸沿岸部が大飢饉になっていて、伊達藩の資料によるとほぼ全滅と。かなりきつい書き方ですよね、流浪、餓死と書かれていますけど。言ってみれば2011年の津波のあとのような荒涼たる風景のなかに、この供養塔が飢饉の2年後に建てられています。
ここに書かれているのは「奉一切有為法躍供養也」。「一切有為法」、つまり諸行無常のすべてをですね、人の犠牲だけじゃなくて、あらゆる海も山も、光も風も、この世のものすべて一切を踊って供養しますと書いてある供養塔があります。
これはいまのリアスアークの話に引き付けて考えればですね、モノが単に瓦礫のようになるのではなく、そこで生まれて一緒に暮していて、自分のために役立ってくれていた家だとか、あるいは携帯電話だとか、アンテナでもですね、そういうものも一切供養する。そういうメンタリティーって、すべてのバランスというか、世界のバランスを失っていて、一切を供養しないではいられないという心持ちとでも言うんでしょうか、そういうものがあるんだろうなと思います。
震災後って、だいたいやっぱり人間の犠牲だけをお弔いするようになっていてですね、人間以外のものを供養することをすっかり忘れている。私たちはすっかり忘れてしまっている。
今日は皆さん、なんというか、奇しくもというか、皆さんモノについて語っていたり、詩を読んだり、あるいは踊ったり、歌ったりされましたが、そのこと自体にこの一切供養みたいなことがあるだろうなと思っていました。
供養塔はいっぱい、なんでもありますよね。動物でもけっこう多いです。草木塔みたいなものもあるし。これは干し魚の供養塔です、南三陸の。みなさん、目刺しを供養したことがありますか? 南三陸では目刺しも供養します。これは干し魚の供養塔でして、干した魚を供養するんでございまして。針供養だったり、やたらに実はご供養するんですね。
渡部八太夫師匠なんかはそのあたりご存じだとは思うんですけれども、こうしてあらゆるモノが供養の対象。すべての世界のバランスがそこでとられている……? うまく言葉にはできないですけれど、そういう感性がですね、アーティストであるリアス・アーク美術館の山内館長のところには残存しているですよ、たぶん。私が思うにはね。そこで「被災物」という別な名前をつけて。
「被災物」といえば、私が思い起こすのは、11年前の東日本大震災での災害の被災物のなかで、なんかこう、大きいとか小さいとか、優劣つけるんではないですけど、福島第一原発というたいへん巨大な被災物がありますね。これを忘れたらお終いで、温度が上がってまた爆発することになるわけなんですけど。どういう形でこれを供養したらいいのか。それを考えなくちゃいけないと思っています。
この先どういう試みになっていくのか未知数ですけれども、気仙沼のリアスアーク美術館から、こうして大阪分館ができてですね、(笑)、南三陸でも、ちょっとコロナでね、なかなか去年も実現しなかったんですけども、姜さんたちと一切有為法躍供養の集会をしようと企んでいたんですね。でも、なにしろ去年オリンピックのさなかでのパンデミックでコロナ感染者ががっくと上がったときだったので、南三陸の9月の集かいはきびしかったんです。機会を見つけて皆さんと一緒に踊り供養奉りたいと思っています。はい、ではひとまずお返しいたします。
会場:拍手
姜:
はい、ありがとうございます。山内明美さんの話を聞いていて、今日私たちはお祭りをしたんだということに気がつきました。あの「被災物」ってブツって「物」と書いているでしょう? でも私が被災物とこの間、つきあっていて思ったのはブツというのはむしろ「仏」に近いと思っていたんですね。「神」といってもいいかもしれないけれども。よく田舎のほうとか行くと、奈良とか、私は奈良に住んでいるんですけど、奈良とかでも、由来のわからない道祖神やら仏像やら、道端にいっぱいあってね、そこにその辺にすんでいる人たちがいろんな謂れを語るわけなんだけど、それはその人たちの記憶ですよね。それと同じように被災物、この被災物は頭の中で「被災仏」と変換してください。この「被災仏」たちの由来を私たち勝手につくっていて、これ100年たったらほんとの謂れになるかもしれない。
そういうふうにして、人間って、近代に入る前はいろんなものに自分の記憶を託して、ともに生きて、神として仏として祀ってきて、さきほど神話という言葉も出ましたけど、つまりは人々の記憶を謂れという形で積み重ねてきたのではないか。そういうことをつらつらと考えていたんですね。
ここに、リアス・アークの被災物のキャプションを見た瞬間に「これは語りだ」と言って、奥浄瑠璃の探索に東北まで行っしまった男がいます。奥浄瑠璃というのは昭和のはじめくらいまで東北のほうで語られていた浄瑠璃です。
では、まずは順番に渡部八太夫のほうから、一言。ピヨピヨ団、いいですか?
八太夫:
はい、山内館長先生、それから明美先生、どうもありがとうございました。えーと、渡部八太夫でございます。ボーッとしてというか呆然としてというか。私がよく唱える言葉に「山川草木悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」、この言葉を常に唱えて、山の修行を歩いてまわるんですけれども、このリアスアークの被災物に関わってから、神仏の考え方がもっとリアルになったというか。もうなんかそこから湧き上がってくる言葉がもっとよく聞こえるようになったというか。そういう新しい次元に引き上げられたような感覚が実はあります。そういう意味でリアスアークに感謝しています。ありがとうございます。
てじょん:
いま一切の供養という言葉が明美さんから出たんですけども、私もまったくその通りであると思ってですね、そのなかに空気感であり、温度感、それとあと匂い、これを見て何と悲惨な匂いであったりだとかが、「被災物」の写真の中から感じられる、ここに映っていないものを感じられるという自分がいてたんですね。それが記憶の中でリンクして、そこから物事が発展していくってことをすごく鍛えられました。だから自分でももっていない感性とかを磨く意味で鍛えられて、次はどういうふうになっていくのかな、っていうのを次の世代の人たちに伝えていきたいという気持ちがつよくなりましたですね。どうもありがとうございました。
姜:
そうですよね。ピヨピヨ団は平均年齢たぶん60代ですよね。どうやってそれを次世代に広げていくか。課題ですね。
では、取りつかれたように物語を書き続けた岡本さんにマイクを渡します。
岡本:
はじめまして、岡本といいます。このプロジェクトに参加して半年くらいたちます。最初にスペースふうらでやっていたWSに行きまして、どんな言葉が出てくるかわかんなかったんですけども、被災した漁船の写真を見まして、ぼくはもう10年くらいたつんですけど、アフリカのほうに関わっていたんですね。事情があってそのことを語る機会もあまりなくなってきたのですけど、それが湧き上がってきて。ぼくがいたところはザンベジ川の氾濫原、洪水なんですけども、それと東北の津波が重なって見えたんですね。そんなかたちで、記憶のケアって言葉もWSでちょこちょこ聞いていたんですけども、自分自身が記憶を語ることが非常に心地よかったということがひとつあります。そんな感じです。
ふかじゅん:
うまくしゃべれないですけど、最初に去年の秋から、「被災物」に応答するという企画に向き合っていくときには、戸惑いがあったんですけど。隣の岡本さんのような記憶が出てくることに対してもすごく驚きを感じましたし、何べんもWSの中で歌なんかでも歌ってますけど、「被災物」を前にして阪神大震災のリアルなことが先に蘇ったんです。
それから、東日本大震災では、震災以降、被災した建物だとか、先ほど館長さんに見せてもらった当時の写真とかについては、実際にたくさん目にしたり目の前に立ったりしたんですけども、それが自分のなかに残していった記憶と、実物は見ていないけれども写真としてモノから引き出される記憶というのが、あとからどんどん自分の身近に感じられるということがありました。震災直後に見たときよりも、もっとリアルに感じられたんですよ。
先ほどてじょんも言いましたけれども、「被災物」を前にすると、それを使ったことのある人間がゴーッと引き寄せられてくるのがどんどん感じられる。その物にまつわる記憶が蘇ってくる。それが伝承というか、自分の言葉の形に変わっていく。震災の記憶を伝えていくためのものとしては、自分の身近にあるような物たちもとっても大事なんだと。「被災物」というもので皆さんの役に立つことはすごい発想だとあらためて思いました。まず先ほどの館長さんのミシンの話がご自身の記憶であった、まずはじめから増殖というものがあったんだということで驚きましたけど、私も同じようなことをしていたんだなと、いま感じました。
姜:
今日はね、この場に乱入するかもと言っていたんですが結局来られなかった方がいて、その方がここイサオビルの前に「被災物」展示をしていたスペースふうらでね、被災物のなかでパフォーマンスしたいと言って、身体表現をされているんです。大阪に劇団態変という劇団がありまして、これは身体障害者のパフォーマンス集団ですね。そこのパフォーマーの方です。
彼が被災物の展示に囲まれる形でうずくまって、じっと石のようにうずくまっていたのが、だんだんと震えて立ち上がって、被災物の一つひとつに挨拶をするようにして、展示の会場を歩いて、そのまま「被災物」たちの魂を引き連れて扉をあけて外に出ていく。引き連れて、というのは、もちろん目に見えないのでありますが、とにかく引き連れて解き放つ。そういうパフォーマンスをやったんですね。そのパフォーマーご自身も劇団態変のパフォーマーだから、五体不満足なわけなんです。展示されている被災物もみんな五体不満足なわけです。
で、その被災物の魂を背負ってパフォーマーがゆっくり歩いていくときに、海に漂流していた蛭子たちがわらわらと集ってくるようでもありました。これは先ほど岡本さんが読み上げた蛭子(ヒルコ)の物語と重なり合います。日本の最初の神話で、最初に神々のあいだで生まれた子ども蛭子が五体不満足だったから葦舟に乗せて海に流してしまった。それが戻ってきて戎さんになった、神様として戻ってきたという。
私たちはが、そういう蛭子神話のようなことを何も意図していなかったときに、彼がやってきて、ここの家にはには蛭子がいるんだよと、この蛭子たちは実は恵比寿さんなんだよということをからだで表現して去っていったんですね。なんの打ち合わせもなく、いきなりやってきて、そういうパフォーマンスをやった。
山内明美さんにその映像を送ったら、「捏造」って言われたんですけど、(笑)、捏造ではなく、たとえば、たまたま山内館長が朗読してくださったキャプションを展示に際してランダムに流していたものがそのまま、そのパフォーマーが「被災物」の中を歩いていくときに、ドラム缶ならドラム缶のキャプションが、トランペットならトランペットのキャプションが、携帯なら携帯のキャプションが、流れたんですね。偶然です。で、あっ、なるほど、ここには蛭子がたくさんいるんだ。蛭子と同時に無数の恵比寿さんがいるんだ。そういうことに気づかされたことがあって、それで今日、西宮の恵比寿かきが恵比寿さんを連れてやって来たわけです。
その、やってきてくれた恵比寿さんにしても、私たちはお願いしていないんですよね。お願いしていないんだけど、今日、ここ「被災物モノ語り」の場にやってきてくださった。ということでこの成り行きを恵比寿かきの武地さん、説明していただけるでしょうか。
語らい その2
武地:
恵比寿舞いをしました武地でございます。つたない者ですけども。「いま、成り行きをしゃべれ」て言われたんだけど、その成り行きはなんだったのだろうかなと自分でもよくわかっていないのですが、ただあの、岡本さんのほうから「ここで被災物の展示をするから」「物語を語る」って聞いたときに、ああ恵比寿さんだなと、すぐに思ったんです。でも別に何をするかわからないし、時間的に合うかどうかわからないし、ほんとは今日3月19日は来れないはずだったんですよ。でも来れないんですけど、たいがい来るときには来るんで。いつもそうなんで。ただ最初にお話を聞いたときに、なぜか3月11日に、それこそ東日本大震災の日ですよね、その日に私が時間があいていて、ピヨピヨ団の皆さんも時間があいてて、では3月11日に恵比寿舞いをここでやりましょうという話に。ああ、やっぱり3月11日にするんだなって、ここに来させてもらうことになったんです。
それで、その前に、その打ち合わせをちらっとしようかと思って、ここに現れたときに、小泉さん、さっき姜さんが話していた蛭子をやった方が突然来たんです。本当に偶然に。それで「こんにちは」って挨拶しまして、蛭子と恵比寿が会いまして、やっぱりこういうこともあるんだなあと思いながら、それは淡々と、私の中では、いつもこうだからって思って、別に理屈もつけるわけでもなく、今日、ここに参って舞いました。
3月11日の時には、ほんとうに何も考えずに恵比寿さんに向かって、「恵比寿の思うこと、感じることを舞わせてくださいね」ってことで、舞わせていただいて。私もやっぱり八太夫さんと同じだと思うんですけど、被災物から何か聞こえてくるような気持ちがするんですね。もちろん映像を見ても写真を見ても、私個人としては、このモノを使っていた方とか、このモノが語ることってあるよねって、なんだろねって前から思っていて。海から上がったものだけが特に恵比寿と言われますけど、でも海からじゃなくても、やはりすべてのものに魂は宿るというようなことを、常に感じさせていただいていて、だからこれがここに来た話とちょっと違っちゃってるかもしれないですけど。必然的にかな。恵比寿さんがここに来て、恵比寿と一緒にぜんぶ受け入れて、「わしは舞ったのか……」という感じでございます。
姜:
はい。ありがとうございます。今日、武地さんは来られないはずだったんです。午前中ですか? 胃カメラを飲んだの。胃カメラ飲んで、何も食べられずヘロヘロの状態だったのに、やっぱり恵比寿さんが舞いたいと言うから来られたわけですね。ピヨピヨ団と恵比寿さんと武地さんの話をひとわたり聞いたところで、いったん山内館長と山内明美さんにここまでの感想を伺って、それからまた会場にマイクを回したいと思います。明美さんからいきますか? 館長さんから行きますか? じゃあ、館長さんから。
山内館長:
はい。えっとですね、「被災物」というものがキーになっているというか、接着剤となっているわけですが、これはですね、私が「被災物」を収集して展示をすることが、まさに接着剤をどうすればいいのかなということに尽きるなかで、頼った存在なわけですね。何を言っているかというと、ちょっと思い出してみていただきたいのは、世の中の災害伝承とか、その戦災の伝承とか、そういう活動しているところってたいがいですね、語り部さんがいるんですね。で、展示施設というものをつくっておきながら語り部さんに頼りっぱなしっていうのが、はっきり言ってしまえば日本の博物館であるとかそういった伝承施設の、うーん、私に言わせてもらえればレベルなわけですよ。
つまりですね、これは完全なる敗北宣言といってもいいですが、博物館や伝承施設といったという展示で飯を食おういう施設がそこに人をいれてそれを補うということはですね、一言でいうと失敗していることをみずから認めていることなんですね。
私は博物館の仕事をしてきた人間として、展示というものは展示のみで成立しなければならないという強いこだわりをもっています。それをやっていくためには、どうしても、語り部さんのように何かを語ってくれる存在というのが必要なんですね。それを展示というものから排除してしまって、それが正しいと言ってきたのが博物館展示だったりするわけですが、私はそれをいっこうに正しいと思っていないのですよ。変人なので。昔からそれは間違いだと思っています。
展示の中に、展示そのものに、語りの要素というのがなければ、それは単に陳列してるだけになってしまうんですね。実は博物館という場所は、すべてのものに物語がないと成立しないはずなんです。たとえば昔の武将が使ったキセルなるものがあるとして、それを何の説明も何の語りもなしに、キセルに「キセル」と、つまり犬に「犬」と名札を付けるみたいに、キセルに「キセル」って名札を付けても、そんなこと、見ればバカじゃないんだからわかるんですね。だけど博物館の展示ってみんなそうなんですよ。
災害の伝承というようなことをしようとしているのに、何月何日にどこどこで物が壊れましたってというキャプションを、たとえば壊れた物の前に付けたところで何の意味があるのか、たとえば「何月何日にどこどこで被災した現場です」というキャプションを被災の現場の写真に付けて何の意味があるのか。私はまったくそれはほぼ意味がないと思っている。それをいったいどうやって成立させていけばいいのか? 展示だけで、つまり私が現場にいなくても展示だけで成立する、われわれのような被災した人間がモノを語らなくても、展示がちゃんとモノを語ってくれる仕組みっていうのをどうしたらつくれるかなって考えたときに、これは非常に愚かな悩みだったのですが、いや自分の語りをそこにつければいいじゃんという、ものすごくシンプルな内容だったんですね。
なので私が現場で撮影をしてきた写真には、すべてその場で、なぜ私はここでシャッターを切っているかという語りをすべてつけたわけです。
じゃあ被災物はどうしたらいいんだろうというときにですね、これもシンプルでしたね。私自身が家を丸ごと流されて、すべて失った人間ですから、まあ家の中にあるものって、よっぽどの奇人変人でない限りは、たぶん8割方は誰でも共有するものをもっているはずなんですよ。たとえばトイレにトイレットペーパーがない、私はトイレットペーパー使わない。そういう人ってあんまりいないと思うんですね。私は絶対に箸で飯は食わない。そういう人もあんまりいない。私は炊飯器は絶対に使わない。母にも使わせない。そんな人はいない。だから、たいていの家にあるものは、みんなある程度は共有できるんですね。だから、共有できるものの中に、共有できる物語は必ずあるはずで、私はただ単にそれを自分の経験で失ったものに、みんなが失ったものに重ね合わせて、みんなに共有回路をつくればそれでよかったわけです。それをするとですね、これは被災者の共有回路をつくることと同時に、被災をしていない人にも共有回路が必ずつくれるはずだと。
私には自信があるんです。なぜそういう自信をもてるのかというと、私は美術で飯を食ってきた人間なので。今日、そちらで、さまざまな芸能を披露してくださったプロの方々だったらご存じかと思いますけど、いわゆる芸術表現とは、そういうものを共有するためにつくられて、そして時代を超えて、地域を超えて、文化を超えて、きっと共有されてきた、まあ人類共有のひとつの接着剤のはずなんですね。そこに頼ることに私は何の不安もなかったわけです。
なので、ちょっと博物館学的にいうと、ちょっとどころではない、相当ルール違反なのは百も承知なんですが、ただ私がやりたいことをやるためには、それをやるしかない。そしてそれをやるべきだと、やることに価値があると思ったので、私はやったんですけども。
それがですね、こういう形で「被災物」からモノ語りが異常増殖して、非常にうれしく思いますし。なんせですね、これは今日いちばん最初の挨拶のなかで姜さんが語っていたことでもあるし、もう一度繰り返しますけれども、私はそうなることを望んでつくりましたので、まあ大正解だということで。
実をいうと私が目指すものはもっと先にあって、これがひとつお祭りのかたちになって、数百年伝統の祭りとして続いていくという。今日やってることがでもないのですが、つまり様々なメディアですよね、様々な表現が駆使されて、人の願いとか思いとか、愛情だったり、怨みだったり、そういう人間の内面のもの、精神文化というものをつないでいく最大のブツ、最大の表現方法、これが私は祭りだと思っています。伝統的な祭りというと二度と生まれないって現代人は勘違いしていますけど、祭りっていうのはどんどん新しい祭りを生み出して、それを伝統の祭り、伝統文化にしていっていいんですよ本来。本来それは許されていることなので、私はほんとうであれば何をしたいかといったら、ほんとうは祭りを生み出したい。三陸で新しい祭りを生み出して、その祭りをただただ楽しみながら、伝承していたつもりが、それが災害伝承になっていて、それが津波から身を守る方法を伝えていて、そしてそのようにして壊れた世界を立て直していくすべての方法がその祭りによって伝承されていく、そういった祭りを生み出すことが私のいちばんの夢をいうか、野望ですね。気仙沼という町はですね、ちょっとでかすぎてなかなかそれが難しいのですが。
期せずして、いま恵比寿さんの話がでています。気仙沼には「立ち恵比寿」というものがいまして、なんとこれは大阪から由来して来たものです。気仙沼の人たちはすぐ騙されるんですよ。当時ですね、廻船でまわってきた大阪商人が「立ち恵比寿」の像を持って来たんです。それを気仙沼に持ってきて「これ誰か買わないか」と言ったときに気仙沼の人間は多少ものを知っていて「いや、おかしいだろ」と、「恵比寿さんは足が不自由で歩けないはずだ」「なんでこれが立ってるんだ?」と。そしたらなんと大阪商人はですね、「座っているだけでありがたい恵比寿さんが、なんと向こうから歩いて来てくれているんだよ」と、「こんなありがたいものは他にない」と。そしたら気仙沼の人はですね、ころっと「なるほど、それはいい」と。
そうやって買ったものだと言われているものが、いま三代目になりました。初代は戦争にとられました。溶かして鉄砲玉にされた。二代目は、その後戦後に建て直されたものが津波で流されました。そして三代目が設置されて、設置される直前だったか、設置される直後に、二代目がすぐ足元から出てきたんですね。なんと驚くことに、ちゃんと探してなかったという。立っていた目の前に沈んでいたんですね。そしていま二代目は、三代目のうしろの小高い丘の上に相変わらず立っています。三代目はタイではなくカツオを抱えて立っています。その恵比寿さんという存在と、今回の被災物というものをみなさんが紐づけをしているのは、私は何とも言えない底知れぬ因縁を感じました。非常に面白いなと思いました。期せずして、恵比寿の話が、蛭子の話がでているんですね、私にしてみれば。
被災物と来訪神の関係性というんですかね。しかもそれが恵比寿さんだったということは、この気仙沼にとっても非常に面白いストーリーかなあと、いま思っています。さっき言った祭りなんですが、気仙沼の立ち恵比寿というものが立っている場所はですね、内湾地区の五十鈴神社 というところ、地元の人たちは「オシメサマ」と呼ぶ神明崎、お神明さんという場所に立っています。そこから山を登ると安波山(あんばさん)という気仙沼にとっては非常に重要な山があります。私はその恵比寿さんのところからその山まで走って登っていく、何かそういう山を駆けるような祭りをその地区で生み出すことはできないかなと。そこには恵比須さんもからむ、お神明さんもからむ、安波山もからんでくる、内湾地区も絡む、そして「坂のまち」という気仙沼の中心街と言われてきた港町がからむ。そしてもちろん津波がからむ。その山に行く途中には復興記念公園がある。その一連のロケーションを使って何かお祭りを生み出すことはできないだろうかと。
気仙沼には港祭りという、産業祭りが派手になったような感じの、根拠のない、花火をバーーンとあげて、みんなで露店でものを買って食うというような祭りがるんですが、もっとちゃんとしたもっとちゃんとしたお祭りを生み出せないかなっと思っています。これ気仙沼の人にいうと怒られる話ですが。まあ、今日は、そんなことをあらためて考えさせてくれる非常におもしろいイベントだったなと思って拝見しました。以上です。
姜:
はい、ありがとうございます。あの、山内館長が構想しているお祭りにピヨピヨ団はマレビトとして乱入してもよろしいんでしょうか?
山内館長:
鳴り物を鳴らしながらチンドン屋のように来ていただけるといいんじゃないかと。
八太夫:
ありがとうございます。いきまっせ。
姜:
そうしましたら山内明美さん、よろしくお願いします。
山内明美:
私はこのあとに何を言えばいいのかという感じでないですか? はい、つながった世界~♪今日のテーマソング。どんどんつながって拡大して。
「被災物って何なのか?」って、今日のスケジュールに書きこんであったんですけど、一つひとつ恵比寿だったんですね。私も気がつきませんでした。いま気がつきましたね。恵比須の話は確かにしていましたけれど。この被災物の一つひとつがすでに恵比須だったという。
最近ちょっと北海道に行くことがあってですね、アイヌの方たちの話を聞いたりするんですけれど、アイヌの人たちにとってのカムイですね。お隣のアイヌの方に聞かれるとたぶん「携帯電話はカムイですよ」って当たり前に言います。暮らしの中で、自分の日々の暮らしの道具になってくれるもの、それからまわりの自分の環境、山とか海とかだけじゃなくて、すべてカムイだそうです。こういうコーヒーカップとかもこれもぜんぶカムイですね。だから被災物、ほんとはカムイなんですね。それってやっぱり東北にとっても大事なことと思っています。
あとはですね、安波山からですね、お山掛けしてですね、福男とかですね。だれが走れるんでしょう。ちょっと期待をしています。新しい祭りをぜひやりましょう。はい、お返しします。
姜:
はい、ありがとうございます。実は私と山内明美は、東京のど真ん中で、山内館長が構想していたような祭りをいまやろうと画策して、いろんなことが増殖中ではありますね。山内さん。
山内明美:
そうなんですよ。百年祭をいま企画しております。HPとか出せればいいんですけど、すぐ出せないですけど。
姜:
関東大震災百年祭です。
山内明美:
はい。関東大震災から来年ちょうど百年になるんですね。仏教的にいうと今年の9月が百回忌ということだそうで、百回忌、今年の2022年ですから、1923年の9月1日に関東大震災が起きたわけなんですけども、そこから100年ということで、いま準備をすすめています。北は北海道から、南は八重山、それから朝鮮からはサルプリとそれからいっぱいありますね。パンソリ。それから伊勢太神楽もお招きする。鹿踊りも来ていただく。それからピヨピヨの皆さんも。ピヨピヨの皆さん、かなりやってくださることになると思うんですけども。そういったことでもって、ほとんど姜さんが。私はHPつくったくらいで。そんなことでいろいろ企んでますので、みなさんぜひ万障お繰り合げ・・・ちょっと言葉おかしかった。
姜:
万難を排して。
山内明美:
万難を排してですね、いらしてください。はい、お待ちして、おります。
姜:
はい。ピヨ ピヨ団は「たくらみの酵母」って呼んでください。酵母です。ぷくぷくといろんなたくらみを発する。
語らい その3
姜:
ということで、皆さんもいろいろ聞きたいことがあると思うんですけど、なかなか直通でお伺いできることもないと思うので、どなたか、山内明美さん、あるいは山内館長に、ちょっとこれ聞きたい、こんな話を自分してみたい方、いらっしゃいませんか?
高津:
あのねー、全国からね、その美術館に、あの、その美術館はいつできて、いま現在も日本全国から来られているのですか?
館長:
はい、お答えします。うちのですね、いまの震災の常設展示をあけたのは、2013年、平成25年になります。常設展示ですから、同じ状態でずっとそのままいまも展示をしています。基本的にはですね、全国各地から、外国からもかなり通常は来られますね。この二年くらいはどうしてもコロナの影響があって、半分以下の状態が続いていますけれど。まあそもそも本館を目指してという方はいないわけではないですけれど、被災した東北の沿岸部というものを歩く人たちが、まだまだいますので、そういう方々が気仙沼を経由すると、もれなくだいたいこちらには来ていただいているのかなと思います。なので、いま現在も人は来ていただいているのかなと思います。
高津:
はい。ありがとうございました。
姜:
いまリアスアーク美術館のHPを共有してくださったのは山内明美さんでしょうか? 「リアスアーク美術館」といれてググると、きちんとこのページが出てきます。ほんとうに震災にかかわる常設展示ということで、いろんなところで語られている美術館なので、「リアスアーク美術館」だとか「震災の常設展示」とかのキーワードをいれると、いろんなたくさんの情報だとか、さっき山内館長がおっしゃっていたように物議をかもしたとかね、あるいは美術系のほうで反響があったとかね、いろんな話がでてきます。そういうのに興味がある方はHP、あるいはネット上で見ていただけたらと思います。
津波も地震も三陸においては文化的な事象なんだということを、山内館長、はっきり言い切っていらしゃいましたよね。それっていうのも、ほんとに津波も地震も含みこんだ風土のうえに、なりわいというもの、暮らしというものが成り立っているという、当然のこと、当然のことなんですけど、そこの外にいる私たちにはわからないこと、想像力が及ばないことを、被災物をとおして繋いでいく、繋ぐためのメディアとしての被災物があるんだというのは、館長さんの話を聞いていてすごく腑に落ちた。
会場の方、他にご質問ある方いらっしゃいませんか?こちらにどうぞ。
真鍋:
さっきの向井さんの友達の真鍋べっていいますけど。向井さん、さっき本の朗読をしていた方ですが。質問というより、感じたことがあったので、お話したいなと思ったのですが。
最近、ロシアの話とか、いろんなこんなことがまた起こるのかという話があって、歴史とか、前から歴史には興味があったのですが、歴史のことについて考えたりして、近代とか、博物館とか、帝国主義とか、さっきの朝鮮の話もでましたけれど、その話とかを話していくことすらぜんぜんされなくなっていて、隠されているのかというくらい全然話されないなあっていう気がしていて。
向井さんが誘ってくれたときも、「モノ語りが増殖する」って話を聞いたと思ったんだけど、「モノ語り」と言ったときに、博物館や帝国主義に回収されない「モノ語り」というものがどうやって増殖されていくんだろうとすごく興味をもって。
今日のこのイベントも、パフォーマンスをする人、詩を読む人、歌う人が、それぞれがその人自身の言葉をかっこつけずにそのままを表現するということをやっている人たちがいっぱいいて。こんなことがあるんだ、こんなところに来てしまったんだという感じがあって。
あと、スピリットというと、ちょっとスピリチュアル系みたいな話になっちゃうと思うんですけど、博物館といった近代的な考え方、話のなかでも、アニミズムというか、その人自身が感じている記憶とか感情とか暮らしとか、こうやってみんなで集まって、みんなで考えることが生きている不思議な感覚というか、それをお伝えしたいなと思いました。ありがとうございました。
姜:
ありがとうございます。
八太夫:
アナキズムなんです。一言で言うと。
姜:
アナキズムというとね、ただ、そのイメージだけでちょっとヤバいんじゃないかというふうに思う人も多いと思うのですけど、一つひとつのモノに神が宿っているとかね、一人ひとりが神なのであると言い出したら、そりゃあ当然、日本のど真ん中の一人が神だと言っている社会ではアナキズムになるわけですね。
でも、もともと我々はいろんなところに神が宿っている、モノにも神が宿っている、いやモノ事体が神なのだ、ヒト事体が神なのだという、そういう感覚をもって生きてきたわけで、それをアニミズムと言っているわけでね。アニミズムがアナキズムに流れていくのは、繋がっていくのは、私は当然だと思っているのです。
決してこわくもないことで、人間感覚としては、むしろ神が一人であることのほうが絶対おかしい。と急に声を大にして言ってしまいました。
会場:
笑
八太夫:
こわーい。
姜:
こわいですか?
三刀月:
穴があいたものを愛するからアナアキズム。
姜:
いま聞こえました? 穴があいたものを愛するからアナアキズムという発言が出ました。あと若干時間があります。ではこちらに。
会場(女性):
本日はありがとうございます。私、東海某県某市から来ているものですけれども、今日の山内館長の話を聞いてギクッとしてしまったんですが。完全民間の戦争資料館のボランティアをしておりまして、語り部さんの話が先ほど出ましたが、語り部さんがいないと帰ってしまう人がくらい語り部さんに頼っているんですね。
完全民間ということでお上の審査をあまり受けないんですよ。なので、たとえば従軍慰安婦のことですとか、徴用工のことですとか、ばんばん展示しているんですけど、そこに民間の人たちが父の軍服ですとか、慰問袋ですとか、あとこれは千人針とか、みずから寄贈してくださるんですね。そういうモノはどんどん増殖していくんですが、それに対するモノ語りというのは、民間で場所が少ないものですから、一年間で集まったものをどんどんどんどん衣類ダンスにいれて、ムシューダみたいなのをいれている状態で、すごいもったいないなということで、今日何かヒントをいただいたような気がして。
どちらかというとこれが戦争のなかでどういう役割のものだったんだ、どういう記憶をもったものだったんだということも大事だと思うんですが、寄贈された方が、父の、母の、祖父の、祖母の、過ごした時代のどういうモノで、私にとってはこういうモノですっていう、寄贈された方のお気持ちとかご意見を記録していくってことが、これから戦争体験者の方がどんどんお亡くなりになるなかで、生の声がなくなっていくなかで、大切なことなのかなあと感じまして。
すみません、早口で自分の意見ばかり言ってしまったんですけど、ずれていたら申し訳ないんですが。館長からヒントをいただきまして、ありがとうございますという気持ちです。
姜:
ありがとうございます。山内館長、いまのお話に何か応答はありますでしょうか?
館長:
はい、そうですね。現状として語り依存というのはほんとうに多いんですよ。これはどうしてもギャラリートークというひとつのその欧米で 「ミュージアムエデュケーションの一つの成果」 というか、日本に、たぶん20年くらい前から輸入されてきていると思うんですが。もっと前か。30年近くたちますかね。それってかなり正しいことという認識で定着してしまっていて。
お客さんのほうも、うちなんかもそうですが、うちの一階の展示を見に来たお客さんに、「解説お願いします」って言われることがけっこうあるんですね。あれにさらに解説ですか?って思うんですよ。欲しがるね、ずいぶん、と思うんですね。全部読むと二時間半かかるのに、それにさらに解説も?って思うんですけど、違うんですよ。自分で読むのがめんどくさいだけなんですね。自分で見ようとしないんですよ。全部いわゆるお客さんとして、与えてもらう仕組みを当たり前だと思っています。
日本の博物館の問題というのは、実を言うと博物館そのものの問題ということが、もちろんその何が問題かというと、そういうお客さんに愚かにもずっと応え続けてしまったという日本の博物館の問題です。
で、一方で、その問題の本質というのは、お客さんがですね、博物館というのは学びにいく場所であって、自分から何かを得ることが必要なんですね。たぶんそれは学校とかで、基礎的な学習としてやらなければいけないんですけど、どうしてもその、解説ありきみたいなのが主流になっちゃっていますから、それは仕方ないと言ったら仕方ないです。ただ変えていかないとまずいのは事実かなと思いますね。
私の場合はですね、「展示をする側=主体」というものと、「それを見る側=客体」という関係があるんですが、私はそこにみずから見る意志というものを求め続けることにしています。
先日面白かったのはですね、焼津に、カツオの横流し事件で大騒ぎになっている焼津の漁協でやっている漁業資料館みたいのがあるんですよ。これは失礼なことを言いますけど、資料展示、博物館展示としては、私が点数つけるならば、100点満点中、0点といったひどい状態です。はっきりいうと倉庫です。もう倉庫状態で、展示としては成立していないかなと思うんですね。そこにうちの民俗担当と、たまたま静岡に出張に行ったついでに行ってみたんですね。物置状態なんですが、われわれ以外客は一切いません。荷物大きいのを持っていたので「ちょっと預かってもらえますか?」と言ったら、「誰も来ないからその辺に勝手に置いておけ」って言われました。そんな状態なんですが、そこでわれわれはですね、二時間半くらい、それこそキャッキャ言いながら目いっぱい展示を見て帰って来るんですよ。
何でそんなことが可能かというと、こちら側に見るのに必要な知識がまずあること、展示されている資料をですね、自力で勝手にある程度見れてしまうんですね。そうなったときにふっと気づいたんですよ。展示って実はこれでいいんじゃないかと。そこから比較するとですね、いまの日本の展示施設の展示は明らかにやりすぎです。親切すぎますね。まして人が説明までしてくれるなんて、たぶんこれは博物館としては間違いだと思っています、私は。
まして美術館になってくると、美術館に行っていちいち説明欲しいですか? 自分で作品を見て「あ、なるほどな」って答え合わせはしたいかもしれないけれど、これはこういうものですと一方的に言われてみてもひとつも面白くないと思うんですね。だからそういうことが定着してしまっていることが問題だと私は思っています。なので皆さんもですね、なるべくダメな、ダメなっていうと失礼なんですけど、何にもやっていない、やる気ねーなーという資料館とか博物館とか、ぜひいっぱいめぐってみて欲しいです。すごく楽しい。そこで楽しめるかどうかで、自分のポテンシャルがわかりますから。それ、ぜひおすすめします。
姜:
はい、ありがとうございます。あの、確か、山内館長、絵を描く人ですよね。それで日本画のことを語られていたと思うんですけど、日本画っていうのは、「描くもの=対象」を捨てて捨てて捨象して、抽象ではなくて捨象して描いていくっていう。その日本画の発想、志向っていうのは、リアスアーク美術館の展示のなかにもあるんだとおっしゃっていたような気がするんですけれども。捨象する、盛らない、説明しすぎないっていう。
館長:
いま、実を言うと、21日で終わるんですが、「東日本大震災発生10年特別企画展」というのをやっていまして。いま明美さんがあけてくれているHPのなかに展覧会の紹介も出ていると思います。私も自分のツイッターで情報を流しているんですが。
今回うちの特別展は、二時間くらい時間を要するような変態的な展示をしているんですけども、展示の仕方としては紙、いわゆるB2判、A1判くらいのポスター状の資料をつくって、それをダルマ型のダルマ鋲といわれる、いわゆるプッシュピンみたいなもので、壁面にピンでとめただけの、そういう展示の仕方をしています。
なぜそういう形にしたかというと、意図的にやったことで、世の中の最近できている展示っていうのが、ほとんどが展示企画会社の企画によってつくられています。 展示の過剰装飾、過剰演出というものが あまりにも目に余ると私は思っていまして、それをしない。展示なんてものは、中身があれば、愛があれば、ただ単に紙に出力しただけでも、画鋲で打っただけの展示だって成立するんだということ。私は今回は意図的にやっています。
いま私の目に映るそちらの会場も実際そういう展示の仕方ですよね。
姜:
そうです。
館長:
展示っていうのは、別に展示企画会社がいちいち壁紙をつくって、壁面全体を物体をつくって、電気仕掛けにしていろんなことをしなくてもいいんですよね。そんなことは決して必要なくて。まあ、いまのこの共有画面に映っているうちの常設にしても、いわゆる一般的な美術館展示の仕方、壁面に淡々と資料を展示するという方法しかとっていないんです。つまり、余計な味付けは一切しないで、素材の味だけというか。
日本画の話を振られましたけれど、和食の考えに近いと言ったほうがいいかもしれないです。だから、うちはなるべく素材で勝負する、そこはひとつこだわっている部分といっていいかもしれないですね。
姜:
はい、ありがとうございました。そろそろ、とてもいい時間になってきたので、まとめにはいりたいところなんですけども、今日、ピヨピヨ団の主要メンバーでコロナの濃厚接触者になってこれなかった映像参加した畑さんからコメント届いているので、ちょっとこれ読もうと思います。
「今日はありがとうございました。参加できなくてとても残念でした。この企画がはじまったとき、何が語れるのか戸惑いました。しかしキャプションを導きに、写真を見ていくと、自分が映像が浮かんできました。たとえば足踏みミシンだとそれを踏む踵が硬くなった足でした。そのように思って見ると、カメラもトタンもモノが語ってくるのでした。この企画は想像力のトレーニングだと思いました。山内館長の”祭り”という提案……。ここで文章が途切れている。多分この提案に乗ったという話だと思います」。
ええと、その他ピヨピヨ団のメンバーの方でこれだけは最後に一言、言っておきたいという方いらっしゃいますか?
岡本:
このプロジェクトに関わらせていただいて、最初気づかなかったんですね。途中から誰かが「被災物は神みたいなものだ」という話をしまして、ぼくも「ああ、そうか」と、海の向こうからやってくる神様、エビス様という連想をもつようになったのは、一か月前の2月なんですね。
これはぼく自身考えたい課題なんですけど、私たちにとって神とは何かということをやっぱり考えたいと思っていて、一般的には祖先崇拝だったり、先ほど出た日本の中心にいる神とかがあるんですが、そこからこぼれ落ちる神ですよね。たとえば祖先になれなかった人の神。もうひとつ考えたいのがエビスさんの伝承にも繋がる蛭子、身体が五体満足でない欠けたモノを神として祀るのはどういうことなのか。福子や宝子の伝承も日本にはありますし。
あとお月さんを見るときにも、中国でもどこでも満月は愛でるんだけれども、ちょっと欠けた月を愛でるのは日本だけだという話を聞いたことがあります。なぜそういった考えをぼくらは持つようになったのかということを被災物のこの企画を通して考えたいと思いました。
姜:
あとの方。大丈夫ですか? 大丈夫ですね。語りだすと終わりそうにないんですけども、ひとつ山内館長のお話で思ったのが、私たちは当事者じゃないと語っちゃいけないと縛られている節がずいぶんあったんですけれども、これは当事者でない人間たちのなかに語り部を量産するシステムなんだな。当事者、非当事者の枠を超えて、関係性とか、縛りを超えて、非当事者が記憶を継承する、あるいは記憶をケアしていくっていう試みに図らずも私たちは参加することになったんだ。そういうような思いを、今日お話を聞いていて抱きました。山内明美さん、最後に一言いかがですか?
山内明美:
いい会だと思いました。実はね、さっき八太夫師匠に言ってたんですけど、背中がまだ被災物に囲まれている状態で、これから私も自分で供養しなくちゃいけないかなあという感じになっています。くれぐれも皆さんお気をつけください。まだ余震も続いているんですけど、日本列島、活断層活動期で、火山も爆発しているし、それから、すごく、戦争の話も遠くの話じゃないっていう感じもします。アンテナを高くしてですね、奉一切有為法躍供養也と。以上になります。
姜:
はい、ありがとうございます。私たちピヨピヨ団は、たぶん今年の9月に南三陸に行って、そのときにきっと気仙沼まで足をのばして、リアスアーク美術館に怒涛のようにはいっていくことと思います。山内館長、どうぞよろしくお願いします。私たちだけではなくって、今日お話を聞いた方々、リアスアーク美術館に行きたくなったでしょう? 行きましょう。で、みなさんが語り部になって広めましょう。
八太夫:
今日発表していただいた方々が素晴らしくて、私はそれがいちばん今日感動しました。ありがとうございました。
(会場拍手)
姜:
ほんとうに皆さん、どうもありがとうございました。気仙沼と仙台から、どうもありがとうございました。ということで今日はこれでおしまいとしたいと思います。手を振ってお別れ。みんな手を振っています。どうもありがとうございました。
(会場拍手)
了